山主所感《信の風》
夏に痛めた膝がなかなか回復しません。
生涯には生・老・病・死と言う「苦」が付きまとっています。私の膝の痛みは「老苦」と「病苦」でしょうか。
不自由はしていますが、「苦」を「もう治らないのじゃないか、このまま一生この痛みが付きまとうのか」などの不安や、「正座が出来ないから、お参りが出来ない」と言う悩みに置き換えてはなりません。
生涯に「苦」つきもの。不安や悩みに自分からしない事ですね。
「信」を持って立ち向かいましょう・
★小松原法難
「大難は四ヶ度、小難は数知れず」と謳われた日蓮大聖人のご生涯。十一月十一日は、剣難により命を落とさんとした大難の一つ小松原法難の聖日です。
日蓮大聖人は法華経こそ真の教えと建長五年(一二五三)四月二十八日、清澄寺で立教開宗を宣言されました。しかし念仏信仰者である地頭の東条景信に追われ、清澄寺を後にしました。
以降、東条景信は法敵、仏敵となりました。
以来十一年の歳月が流れた文永元年(一二六四)八月、久方ぶりに故郷安房の国小湊へ帰られた時、臨終の母上を法華経、お題目の祈りにて蘇生されました。
同年十一月十一日、天津の領主工藤吉隆の招きにより、鏡忍坊等弟子とともに工藤吉隆の邸に向かいました。
その事を知った法敵、仏敵の東条景信は数百人の家来を引き連れ、小松原と言う所で日蓮大聖人を待ち伏せし、襲撃したのでした。
結果、鏡忍坊と急を聞いて駆けつけた工藤吉隆は殉教し、日蓮大聖人は東条景信から額に刀傷を受けました。
十一月十一日以降、春の訪れまで、日蓮大聖人像に綿帽子を被せるのは、小松原法難によって受けた傷痕が寒さで痛みが出ないようにとの願いからであります。
小松原法難から十六年後、工藤吉隆の子日隆上人によって法難の地、小松原に鏡忍寺が建立され、殉難された鏡忍坊日暁上人を開山に仰ぎ、慈父工藤吉隆を妙隆院日玉上人として第二世に、自身を三世と致しました。
本成寺 往来 オーライ
本成寺に恒例の可愛い参詣団がやってまいりました。近隣の市立北一社小学校二年生の児童です。
毎年「わたしの町はっけん」をテーマに訪れてくれます。
代表児童のはじめの挨拶から始まり、私からお寺と本堂の簡単な説明、続いて児童からの質問を受けました。
毎度、子供たちの目線の生き所が新鮮すぎて、スムーズに答えきれない事もしばしば・・・・・・
今回受けた質問の一部です。
・どうして、お坊さんになったのですか?
・賽銭箱にたまったお金は、何に使っているのですか?
・みんなが集まって、何かをするそうですが、何をするのですか?
皆さんが、祈りを込めて投げ入れる賽銭。
その後どうするかなんて考えないですよね。
みんなが集まってする事、祈り、お参り、供養、全て幸せになる為と、胸を張って言いましょう。
小松原法難の模様は、十一月十七日に執り行われる宗祖日蓮大聖人報恩御会式の折、高座での繰り弁として、皆さんにお伝え致します。
住職 G